8〜9〜10日目(6月27〜28〜29日)

 ロシアの許認可で、「カムチャッカ半島を離れた当船は帰路の途中でロシア領内に入る事が出来ない」と船長の説明があった。残念ながらもう千島列島の島々に近づく事は出来ず、曇天の水平線に想いを馳せるしかない。

 千島列島北端の占守(しゅむしゅ)島の沖合を通過した時、甲板では日ソ両軍の激しい戦闘のあった犠牲者への慰霊式が船長を始め船員、船客も含めて行われた。用意された白菊や日本酒、米などを海に投じてここで散った魂を追悼した。

追記:

@この旅の直前に、スウェーデンの探検家、ステン・ベルクマンの「千島紀行」を読んだ。
 日本人の通訳兼助手を伴い、1929〜30年にかけて千島の島々を探検した。多くの動植物や人の営み、厳しい自然について記している。霧が多い中で、晴れた景色の素晴らしさを記している。時間をかけて、若さで冒険的にならねば、本当の極北の素晴しさは分からないのかも知れない。

 日本を離れてから10日間、青空が全く見えない。そう云えば、カムチャッカのガイドが、「今年は、6月に入って一度も青空を見ていない」と云っていた。

 9日目は船上でのイベントに参加して歌奴の四席目の落語、ビンゴ大会、ピアノコンサートなどで日を過ごす。晴れれば右舷に択捉・色丹などが見える筈なのだろう。

鎮魂の霧笛は長し占守島  



 海ゆかば霧濃き島へ手を合わす  



  酒を撒き冷夏の海へ黙祷す

 これは、当時のソ連首相スターリンの領土拡張方針に基づき、北海道までも火事場泥棒的に侵略する作戦の一端だと云われている。
 しかし、急遽、再武装して戦闘に入り、8月21日に停戦交渉でまでソ連軍の南下の食い止めた。一説によれば、この戦いの死傷者は日本軍の7〜800名、ソ連軍は3000名以上の死傷者を出したと云われる。
 スターリンの侵略後の青写真では釧路と留萌を結ぶ線までをソ連領となっているらしい。

A句友で鹿児島にお住まいのM氏が記した、文芸誌に載った「ロシアに眠る薩摩の漂流民ゴンザ」のコピーを頂いた。
 1728年、薩摩藩船の遭難でカムチャッカに漂流した11歳の少年ゴンザがペテルスブルグに送られ、21歳で亡くなるまで、日本ではあまり知られていない人物の考察。世界最初の露和辞典を著述した事など、短い生涯で太く生きたゴンザの話は印象的だった。


近くて遠いロシアが我々の未だ知らない壮大な歴史ロマンで結ばれている感がする。

 船長の話で、「通常15度前後の温度が、25度に表示された日があるが、これは海底火山の上を航行している為」との事、そんな場所もあるのかと、この辺りの海域の特異性を感じた。

(占守島沖合の慰霊式)

 10日目の朝7時に苫小牧港に入り、日本への入国審査が始まる。船での審査は初めての体験だ。入国審査員が船内のイベントホールに机を置いて、旅券で人物認定して入国印を押す。その後、船室へ税関吏が来て荷物のチェックをした。これらは船10階の上客からの順番だった。

(厨房の料理人たち)

仄暗き白夜の航のイリュージョン    オホーツク航くや船内アロハシャツー  



  船上の白いピアノと赤い薔薇     フルートの音の涼しかりオホーツク  



夏めくやカッパ叫びの女芸      揺れてなお扇子さばきの高座かな  



  歌手エカテリーナいとも涼しく箸使う  ピアノ弾く白夜の海の揺れ微か 



男らは政治談義や外は海霧       船長に晴れ男欲し海霧の旅

 翌日の苫小牧では多くの客が下船するので、夕食中に、料理長はじめ20人程の厨房の料理人が拍手の中を登場し整列する。中央の料理長の挨拶で万雷の拍手を浴びた。
 クルーズでは朝・昼・夕の三食の他にも、早朝ティータイム、10時と3時と夜食など何時でも食事は出来る。特に夕食は和洋のフルコースが用意されて、中々手が込んで美味い。食事は大いに楽しんだ。

 8日目の後の時間は、大道芸をみて、ロシア人歌手のステージを楽しみ、シアターの映画「ひまわりと子犬の7日間」を観て過した。

夏霧や金毘羅祀る操舵室     海霧深し救命艇の赤い屋根  


  夏寒し色丹沖にロシア船      千島への海は露国か霧深し  


    北方の四島さえも海霧包む     人は易し国は難し心太

 この日は10階の操舵室を見学する機会が作られていた。参加者の質問にも船長が丁寧に答え和やかな一時だった。 操舵室には安全な航海を祈る金毘羅神社の神棚もあり、機械化した室には不釣り合いの感もするが、日本船の証なのだ。

 また、当時、占守島には日魯漁業の缶詰工場があり、2500人の従業員が働いていた。その中には、約400人の若い女子工員が混じっていた。
 終戦を迎え、ソ連軍の攻撃が判明するや、霧と夜陰に紛れて、独航船20数隻に分乗させて、北海道へ逃がし、ソ連軍上陸後の彼女らへの凌辱を防いだ。5日後には一隻を除いて無事に北海道に到着の電報が軍へ届き、また、上陸したソ連兵が女性を捜し回ったが後の祭だったと記している。

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(操舵室にて)

 船上で配られた説明書によれば、占守島の戦いとは、終戦を過ぎた昭和20年8月18日に、武装解除を進めていたこの島の日本軍に対し、ソ連軍が突然上陸し、攻撃を仕掛けてきた事を云う。

 約250人の乗客の内、我々も含めて150人がここで下船し、残りの100人は洋上で2泊して横浜港大桟橋で船を降りる。

 クルーズ船の揺れも無く快適な旅だった。天気だけが恨めしいが、歳を重ねてからの旅を見付けたと思う。船旅は実に楽だった。
 楽しませてくれた芸術家、芸人達を、それと船内を詠んだ句を並べてみる。